時間の向こうの空間

十月末から生垣の山茶花がひらきはじめた。うすい桃色と白の二種類で、いやみがない。数日咲いてから声もなく散って行く。散ったあとを眺めて、あわれだと思う。人間に情念があるように花にもそれがあるのか、(中略)

動物と植物のちがいがあるにせよ、生きていることに変りはない。花を手折るのは必要悪なのだろうか、と顧みることがある。そんなときは精神と物体について思いをめぐらせることもあるが、しかし二つをきびしくわける合理的な思いにはなれない。そこのところが私にはよく解らない。

山茶花が終わると寒椿になるが、時間が過ぎて行くのはやはりあわれである。時間の向うの空間が見えなければ、とても生きていられるものではない。

立原正秋「冬の花」より

れから40年近い歳月を経た今、私たちの多くは、余りにも目先の見えるものばかりに焦点を当て過ぎて、「時間の向こうの空間」を見る術がわからなくなってしまいました。その結果として、個人にも社会にも様々な問題やズレが生じているのだと思います。

けれども「時間の向こうの空間」を見ることは誰でもできます。モノとの対峙、人との対峙、時間、そして自分自身と対峙することで、今まで見えなかった「時間の向こうの空間」は見えてきます。PR,JAPANがサイトやInstagramで発信していることでもあります。

特別なことではなく、誰もができる簡単なこと。これからも「時間の向こうの空間」を見るヒントをお伝えしていきます。

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