科学について

科学とはなにか?それは「測定できる経験だけを扱う方法」の名前である。

だから、その気になれば定規一本で科学を実践することはできる。いや、定規すら要らない。何かを数えるだけで立派な科学研究を行うことは可能である。

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「科学的」とは?

科学は、測定できない経験には全く歯が立たない。この点で多くの人が期待するより無力である。例えば「死とどう向き合うべきか」という切実な問いは、科学より遥かに伝統ある学問である哲学が、引き続き形而上学のテーマとして引き受けている。科学の担当は測定可能な経験だけに絞られる。物がなければ測りようがないから、科学の守備範囲は形而下に限定される。このような狭い道を行ったにも関わらず、この世界の隠れた真実を科学は次々と明らかにした。例えば、「私たちはなぜ、今ここにいるのか?」という数千年来の形而上学的テーマは、「進化」の発見によって一挙に形而下に引きずり降ろされ、徹底的に科学のメスが入った。その後の150年で、DNAやタンパク質といった「物」を基盤とした驚異的な真事実が、矢継ぎ早に明らかになってきている。どんなに想像力を逞しくしても到底思いつかないようなことばかりだ。いったい誰が、科学の助けなしにカバとクジラが同じ祖先から進化したことを見抜けただろう?いったい誰が、カタツムリと私たちが顕微鏡でも見分けがつかないほど似た細胞から作られており、しかも同じDNAという物質を遺伝情報の担い手として使い、おまけに同じ暗号を使って、その情報をタンパク質という実態に翻訳しているなどと想像できたであろう?科学はまた、あらゆる人種は単一の種に属することを証明し、遺伝的に規定された知力の差など人種間にないことを明らかにすることで世界平和にも通じうる重大な貢献もしている。これはもはや、わざわざ科学的知見だと認識されないほど社会に浸透した共通認識である。徹底して測定に執着する科学は、多くの人が思う以上に強大な影響力を持っている。

今の社会で普通に生活していれば、「科学的」と謳われた情報が意識に雪崩れ込んでくる。大多数の発信者が「科学とは何か」と問われて答えられないにもかかわらず。その当然の結果として、世間で科学的と言われていることのほぼ全ては、科学者が論文で主張している内容と大きく違う。論文→メディア⇔個人という情報伝達の過程で、あらゆる研究結果が都合よく再解釈される。こうした実態のない材料を使って個々人が勝手な理屈を作るから、世間に漂っている科学的な情報の大多数は実態からほど遠い独断的な虚構である。本来の科学は独断を決して許さない。これを許せば、そもそもが曖昧な概念である客観性など容易に吹き飛んでしまう。独断を許さないから、科学者が論文で主張するメッセージは、どんなに要約しても複雑さが残る。これは、物事を能率的に考えることを望む怠惰な精神には歓迎されない。このような精神は「要するに」を連発して安易に複雑さを排除するので、科学者が慎重に慎重を重ねて排除した独断がたちどころに息を吹き返す。独断的な見解は単純なので理解しやすい。こうした改悪を行う人が優秀と言われる所以である。

科学は極めて厳格に構成された学問である。私が学生としてこの世界に足を踏み入れたとき、その厳格さに戦慄し、荘厳さすら覚えた。この厳格さは日常で要求される水準とかけ離れている。大学院のゼミで20代の半ばにも差し掛かろうとする学生が泣かされるのは、このためだ。この厳格さを根拠として、科学は測定できるものは何でも扱う。この点に常識では傲慢にも感じられる側面がある。小林秀雄氏が言ったように「私達は、例えば天体を理解するのと同じ具合に友人を理解することはできないが、そんな曖昧な厄介な事を科学は認めない。天文学的事実も心理学的事実も、同じ理解方法によって得られる」のだ。同氏いわく、これは科学の「特権」である。重要なのは、ここで特権濫用は起こらないということだ。実際に仕事をしている科学者が科学を濫用することは、普通できない。この特権は実験と観測を通じた実際の経験によって保証される必要があり、その解釈も数名の匿名の同業者による情け容赦ない批判を躱しきれない限りは論文として発表することができないからだ。この匿名の同業者による批評は残酷な域に達する。私は今でも論文を投稿するときには戦慄を覚えずにいられない。自身の原稿がこの批判に晒されることを思うからである。また、評価者になった場合には強い責任感のもとに他者の論文原稿を批評する。科学を敬愛し、その発展を心から願うからである。

「科学的」の濫用

濫用は、論文の外で起こる。多くの場合は、無邪気なメディアや人々の精神の中で。悪意のない濫用の場合、その実態はだいたいが飛躍である。例えば最近、「魚の熟成」が注目を集めている。獲れたての魚よりも、数日置いた魚の方が熟成によって旨味が強くなるというものだ。これについて、いくつかの研究が発表され、大体の仕組みが明らかになった。私たちが食べる魚の筋肉中には、筋肉の原動力となるエネルギー貯蔵物質が大量にある。魚が死ぬと、この物質が徐々に旨味を感じさせる物質に変化していく。この旨味物質の蓄積量は、魚が死んでから1-3日後くらいに最大になるという内容だ。ここまでは論文で科学者が主張していることである。これを例えば釣り人がブログなどの個人メディアで取り上げると、どうなるか?「魚は釣ってから1-3日後が最も美味であることが科学的に証明された」という主張に変化するだろう。論文の主張からわずかな飛躍があるだけだが、この主張は論文にない。恐らく、著者はそんなことを書こうとすら思わなかったであろう。そんなことを言おうとすれば立ちどころに次の様な批判を浴びるのは目に見えているからだ。『君の論文では特定の旨味物質の量しか調べていない。旨味を感じさせる物質以外にも味に影響する物質は沢山ある。例えば甘味、酸味、苦みなどを感じさせる物質だ。これに加え、香りも味に大いに影響するのは承知の通りだ。このように、調べられた以外の物質や香気成分との相互作用の中で最終的に知覚される味は形成される。だから、「特定の旨味物質の蓄積量が最大になるタイミングが最も美味」と主張することはできない。それは飛躍という名の独断である』と。審査員からこのような批判を浴びた主張を論文に載せることはできない。しかし、筆者の誠実な論証は「魚は釣ってから1-3日後が最も美味である」という主張に拡大解釈されて世間に広がる。これが濫用の実態である。積極的な努力なしに入ってくる科学的な情報というのは、ほぼ全てがこのような性質のものである。

これがなぜ問題なのか?間違っているからである。魚は必ずしも熟成のピークに最も味が良くなるわけではない。嘘だと思うなら信頼できる料理人に聞いてみて欲しい。理由は「非科学的」に言えば簡単である。時間が経つことによって魚の香りが失われ、味が濁り、身質が落ちるからだ。これを科学的に論証することは、今の測定技術ではかなり困難だろう。こうした論文が出版されてから、日本で最高レベルの漁師や鮨職人から、「あのような論文が出たが、熟成後が一番美味しいとは言い切れないと思うのだ」という戸惑いの声を何度も聞いた。その度に私は、あの論文ではそこまで言ってはいないのだと、全く面識のない著者を庇っている。そのような味の専門家たちに、では、いつが一番美味しいのかと聞いてみたところ、全員が「白身魚なら獲れたて」と答えた。理由は上述の通りで、「香り・触感・味わいの透明度が段違い」とのことだ。鮨職人は無念そうにこの事実を打ち明ける。なぜなら、そんなものを客に出すことはできないからだ。多くの鮨屋は都会にある。店舗と産地が離れているから、魚が産地で〆られてから客の口に入るまでに普通は1日以上かかる。その間にこの味わいは失われてしまうのだ。「魚は熟成したほうが美味しい」という筋書きは多くの鮨屋にとって好都合である。輸送時間と保存期間を正当化し、在庫を抱えずに済むからだ。実際、熟成を前面に押し出す鮨屋は年々増えてきている。私は熟成鮨を否定したいわけではない。私が言いたいのは、疑似科学の理屈を妄信してしまうと、実際にはとても広い鮨の楽しみ方の経験の幅を狭めてしまうことになるということだ。それは非常に勿体ないことである。

疑似科学の害は高級店での経験に限らない。想像してみてほしい。例えば、お父さんがたまの休みに子供と釣りに出掛けたとする。幸いにしてそれなりの魚が釣れたが、お父さんが「魚は釣れてから数日後が一番美味」という情報を鵜呑みにしていたらどうだろう。お父さんは子供に美味しい魚を食べさせてやりたい一心で、魚を数日寝かせてしまうかもしれない。熟成が上手く行けばそれなりに美味しく食べることができるだろう。けれど、獲れたてを食べるという、釣らなければできなかった貴重な体験を逃してしまう。科学的に説明できなくても、獲れたての魚は実際旨いのだ。重要なのは楽しむことだ。釣りを、子供との時間を、鮨屋でのひと時を。楽しみは感覚である。疑似科学の理屈に閉じこもり、自分の感覚を黙らせてしまっては、こうした経験を非常に窮屈にしか味わえなくなってしまう。情報が間違っていること自体は大した問題ではない。それがせっかくの経験を詰まらないものにしてしまうことが問題なのである。

科学は一足飛びに何もかも説明するのではなく、小さな一歩を積み重ねることで着実に物事を明らかにしていく性質のものである。魚の味の科学研究は、ようやく初めの一歩を踏み出した段階だ。この分野は私の専門ではないが、少し考えれば、人の味の感じ方というのは五感を総動員した総合的な経験だということがわかる。そこには広大な未開領域が広がっているだろう。こんな広大な世界を、特定の旨味成分の量だけでわかった気になっては、つまらないではないか。数か国の旅行ガイドを拾い読みして世界の文化や自然を理解した気になるようなものである。思い上がって鮨屋で誤った知識を語る分には、多少人を不快にさせるだけなので別に良い。何よりも問題なのは、当人を虚無感が包んでしまう点だ。これは誇張ではない。なんでもすぐにわかったような気になっては、何もすることがなくなってしまうではないか。その先にあるのは紛れもない虚無感である。虚無感に支配された精神は人生になんの意義も感じさせてくれない。そこには退屈と暇つぶしがあるだけだ。これは大変な不幸ではないだろうか。科学的、という言葉の一番の危険はここにある。それは誤った単純な理屈ですぐに人を何でも分かった気にさせ、「自分が世界でやるべきことは何もない」という虚無感に導きかねないのだ。それらしい簡単な理屈に溢れた今の時代、あらゆる経験について理屈を感覚に優先させる人は決して珍しくない。

科学との付き合い方

本来の科学は難しい。この世界は難しいのだから、世界を理解しようとする学問が難しいのは当たり前のことである。そして科学は、他のあらゆる学問と同様に、人を高揚させる。それは、この複雑な世界を理解して息の詰まる混沌から解放してくれる可能性を感じさせてくれる。科学の精神は「検証して確かめるまでは容易に信じぬ」という気概であり、「手っ取り早く頷きたい」という怠惰と真逆の精神である。これは人生を充実させ、人を幸福に向かわせるはずのものだ。測定に徹するということは執念深く自然に質問するということである。自然から返ってきた答えが期待通りだったことは、私について言えば一度もない。現実はいつでも、私の安易な仮説よりも複雑だった。それでも、辛抱強く測定結果と向き合っていると、おぼろげに真実の一端が見えてくる。これは非常に心躍る経験である。科学は、難しいから楽しいのである。科学研究よりも楽しいことを私は知らない。もちろん、私は科学者だからそう言うのだ。自分の仕事に愛着をもっている人であれば、皆このように言うであろう。難しいことを楽しむ精神がなければ、科学の面白さは決してわからない。これは特別なことではない。例えばゲームだって、いつまでも簡単ではつまらないではないか。ゲームなら、飽きたら次の作品に乗り換えればよい。ただし、人生はそうはいかない。人生に飽きて虚無に飲まれる事態は断固拒絶しなければならない。

原爆をみて科学は人を不幸にするだとか、暑い日にクーラーをつけて科学は人を幸福にするだとか、愚にもつかぬことを言っても何もはじまらない。科学はただの方法なのだから、中立に決まっている。それは人を不幸にも幸福にもしよう。どうも、「科学的=正しい」という語感が定着してしまったように思えてならない。科学的という言葉は、もはや虚栄心の強い人が主張に威厳を持たせたい場合に使う枕詞に成り下がってしまった。こんなものに屈しないために重要なことは、「測定可能な経験だけを扱う方法の名前である」という科学の無色透明な性格と守備範囲の狭さをハッキリと見極め、科学が何を教え、何を教えないかを知ることだ。理屈で感覚をねじ伏せるのではなく、感覚で理屈を検証することが肝要である。これは自分を大切にするということだ。自分というのは自分の感覚であって、理屈ではないはずだ。世界は難しい、科学も難しい。けれども、自分を大切にすることは、少しの勇気があればそんなに難しいことでないはずだ。私たちの生活環境は安易に世界を分かった気にさせる理屈で充満している。これを無抵抗に取り入れた先に待つのは虚無感である。この時代を健やかに生き抜こうと思ったら、「自分で検証するまでは容易に信じぬ」という気概を育てなくてはならない。懐疑は徳である。遥か昔から哲学が繰り返し教えてくれたことだ。

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