プロローグ
男は落ち着かない様子であちらこちらに目を泳がせていた。年の頃は三十代後半、がっちりとした体躯で、日に焼けた黒い顔は粗野ながら愛嬌も感じられる。男の目の前には茶碗や酒器、壺など数々の陶芸作品が並んでいる。兵庫県姫路市の姫路駅前にある山陽百貨店。その画廊で丹波焼の陶芸家による個展が開催されており、男は知人に連れられて慣れない美術鑑賞を強いられていたのだ。
画廊の壁沿いに陶芸作品が並ぶ。黒い小ぶりの椀、釉薬の流れが美しい花器、どっしりと大きく存在感を放つ壺には季節の花が活けられている。壺の側には中肉中背、四十代後半くらいの男性が難しそうな顔をしながら両手を前に揃えて立っている。おそらくこれらの器を作成した陶芸家であろう。
見事な器の数々を前にして、男はわかったような顔をしながら陶器を眺めつつ、画廊内をのっそりと歩いていた。
酒器が並ぶ一角の前で男は足を止めた。彼は大の酒好きである。ぐい呑や徳利が整然と並ぶ中、彼は説明書きに「藁灰釉(わらばいゆう)」と書かれた小ぶりのぐい呑を手にとった。丹波焼の特徴である釉薬による表情が美しく、何か知らず気になった彼は、壺の側に佇む陶芸家に声をかけた。
陶芸家は近寄りがたい雰囲気を醸し出しながら男に近づき、そのぐい呑についてこう答えた。
「この酒器は稲藁(いなわら)の釉薬を使ってるんです。」
稲藁。その言葉に男はぐんと興味を惹かれた。なぜなら彼は米農家だったからだ──。
2018年2月、米農家・飯塚祐樹と陶芸家・今西公彦の出会いであった。
兵庫県南西部にある姫路市夢前(ゆめさき)町は、古来より米作りが盛んな土地である。この辺り一帯「播磨(はりま)」地域は日本酒醸造に関する最古の文献が残されていることから、日本酒発祥の地の一つと言われている。この地に日本酒好きの仲間が集まり、酒米作りから醸造まで一年かけて酒造りを行う取組がある。
播磨日本酒プロジェクトと名付けられたこの取組は、夢前町の酒好き米農家・飯塚が発起人となり、同町の老舗酒蔵の壺坂に声をかけて2015年から始まった。仲間たちと一年かけて造り上げる酒は好評で、すぐに売り切れる程の人気商品へと成長していた。
しかし酒好きの飽くなき探究心はとどまるところを知らない。もっとお酒を愉しむためにはどうしたらいいのだろうか──そこで播磨日本酒プロジェクトでは、新たな試みとしてオリジナルの酒器の製作を模索していたのだ。
個展で知り合った陶芸家の今西と米農家の飯塚。飯塚から播磨日本酒プロジェクトのことを聞いた今西は心惹かれた。彼もまた、飯塚と同じく無類の酒好きであった。酒器作りにもがぜん興味を持った彼は飯塚にこう提案した。
「米ができる田んぼの土と、米作りにも酒作りにもかかせへん水の源の山の土で器を作って、その稲藁の釉薬で仕上げて、その米で出来た酒を呑むってどうですか?」
夢前の土で作った酒器で夢前の酒を呑む──日本酒好きにはたまらない最高の贅沢ではないか。
「僕でよかったら酒器を焼きましょうか?」
今西公彦の一言から、播磨日本酒プロジェクトの酒器作りは始まったのである。
(続く)