夢前に集う(2)

一同が壺坂酒造の座敷でお酒を愉しんでいる同じ頃、座敷の隣にある台所では二人の料理人が腕をふるっていた。紀風の城田とふしきのの荒巻である。彼らは東京でミシュランガイドの星を獲得している名店の料理長である。そんな彼らが白鷺サーモンをお造りにしたり、山菜を天婦羅にしたりと忙しく立ち働いていたのだ。

東京からはるばるゲストで呼ばれたはずの彼らが、何故ここまで来てシェフをすることになったのか。その理由は、食材自体は豊富に揃ったものの、それを調理する者が誰一人いなかったからである。凡ミスにも程がある。

長旅の疲れを癒やす暇もなく、ゆっくり食事とお酒を愉しむこともなく、田舎の台所で食材を前に次々と一流の腕を発揮する──突っ込むところが多すぎてもはや訳が分からない事態が壺坂酒造の台所で発生していたのであった。

紀風の板長・城田は、弘が採ってきたセリとノビルと蕗の薹を手際よく順に天婦羅にしていき、ふしきのの料理長・荒巻はほたる烏賊(いか)の嘴(くちばし)を取り除き、海鼠(なまこ)を切り開いて酒肴を次々と作っていく。そこへ石井精肉店の石井も加わり、上等の猪肉を炒め出す。一流のプロ達が壺坂酒造の普通の台所に集い、鮮やかな手腕で贅沢な料理の数々が作られていく様は圧巻である。

その様子を台所に立って一番楽しんでいたのは、野菜農家の神﨑であった。彼は野菜の栽培だけでなく、それらを調理することにも長けている。料理に対してすこぶる興味がある彼は、ミシュラン星獲得の料理人が山菜を揚げる様子を見ては感心し、隣で揚げたてをつまんでは食べるという最高の贅沢を堪能していた。

ゲストに台所仕事を任せっきりにしたことを心配した今西と壺坂も、時折台所に顔を出しては料理人達に新酒を注いで回った。座敷にも台所にも酒と食と心が通い合い、芽吹きの春の陽気が部屋の中をふうわりと巡っていた。

料理人達の調理がひと段落となり落ち着いた頃、台所に宮下がやってきた。彼はお土産にと、持参した日本酒に合うチーズを台所で切り分け盛り付けてくれたのだ。 宮下は東京神楽坂にある日本料理店「ふしきの」の店主であり、 認定利き酒師・酒匠でもある。日本酒アンバサダーとして日本国内を始め、海外でも活躍している日本酒のスペシャリストである。

実は彼は、お酒の呑み方について教えてもらうために今西が呼びかけ、昨年11月に壺坂酒造を訪れていたのだ。

酒匠である彼に呼應一〇〇年の美味しい呑み方を聞いたところ、彼はクールな表情をしながら「一般的には冷酒か常温が良い。」と教えてくれた。東京で活躍する彼は佇まいも都会の風をまとい、洗練された雰囲気は騒々しい飯塚や天然の壺坂とは対照的である。そんな涼やかな彼に「宮下さんが超個人的に一番美味しいと思う呑み方は?」と尋ねたところ、彼のクールな細眉が僅かに動いた。

宮下好みの呼應一〇〇年の呑み方とは、60度くらいまで熱々に燗をして、40度から50度まで下げて柔らかくしたところで呑む、というものであった。彼は酒を知り尽くした酒匠である。現代の一般的に好まれるお酒の味わいを熟知し、それでいてマニアックで繊細な日本 酒の呑み方も心得ているのだ。

日本酒は温度や器によって幾通りにも味が変わることを彼は教えてくれた。様々な器を手に持ち酒を注ぎながら味わいを語る彼は、クールな顔ながらその瞳の奥に少年のような輝きがある。 日本酒を心から愛し、かつプロとして厳しく向き合っているのであろう。猫も杓子もと言わんばかりにただただ呑んで笑っては酔い潰れる我々に、宮下は日本酒の繊細で自由な楽しみ方を教えてくれたのであった。

「めっちゃ嬉しいっスよ!」

米農家の飯塚は新酒の瓶を片手に感慨深げに言った。飯塚は農業研修中の20代の頃にも酒米を育てていたのだが、その米を使って酒造りをしたのが若き日の壺坂であった。酒が出来上がると、壺坂は酒瓶のラベルに「米生産者・飯塚祐樹」と名前を記した。まだ研修中であった飯塚は日本酒に自分の名前が記載されたことに感動したのだという。農家は表に出ることがあまりない。 いわんや米農家ともなると、果樹や変わり種野菜のような見た目の華やかさもない故、ますますスポットライトが当たりにくいのだ。呼應一〇〇年のラベルに記された「米生産者・飯塚祐樹」 は彼のこの一年間の勲章でもある。

(続く)

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