流離いのクリエイター(雪彦山篇 3)
ここから先も清流沿いの道を登っていくのだが、この先の道には今までになかった特徴が二つ発見された。一つは、これは道と言えるのだろうかと疑うほどの急な傾斜である。垂直と言えば大げさすぎるが感覚的にはそれに近いものがある。もう一つは、道に沿うように長いロープが垂れ下がっている点である。もはや二本の足だけでは登山不可、両手を使ってよじ登らざるを得ない超急勾配であることをこの一本のロープは短的に物語っている。
ポカンと口を開けて上を眺めながらロープ一本で感傷に浸っている場合ではない。そうこうしている間にも弘はこの超急勾配をバッグ片手にサクサクと登っていく。ぼんやりしていたら置いていかれてしまうのだ。
垂直に近い崖のような登山道を登りながら、我々は弘の背中に向かって到底届かないであろう心の声を投げかけた。
超急勾配の難所を乗り越えた先の山道は水平であった。ただし傾斜がないといって油断してはならない。この道の幅は40センチメートルほど。左手には空に向かて垂直に伸びた岩盤の壁があり、右手は渓流へと続く垂直の崖。一歩でも踏み外したら下の巨石と清流に真っ逆さまである。 凹凸もあまりない岩壁を何となく掴みながら、足を踏み外さないよう細心の注意を払い、下の清流をなるべく見ないようにして気合いだけで狭い道を歩いていく。
何故こんなことになったのか、誰が為にこの道は続くのか。何故、人は山に登るのか──。
そんな疑問の答えを探す暇もなく、次々と雪彦の難所が我々の眼前に立ちはだかる。
「こんな道、子どもらは喜んで行くんやで!」
弘は子どものような屈託のない笑顔でそう言った。余計な恐れがない子どもはこんな道など平気なのであろう。ならばこの山道をさほど喜べない我々はれっきとした大人である証拠と言えようか。煩悩だらけの我々大人はこの雪彦の山をひいひい登りながら、日常に溜め込んだ雑念や執念、邪念、情念、疑念、懸念、欲念、無念、失念、あらゆる不要な「念」を払い落としているということなのか。
これが雪彦山の修験道……!
(※注・個人の解釈です)
「ここや、着いたで!」
弘が足を止めた場所は、明るい空間が広がる渓流であった。今までとは明らかに違う景色が目の前に広がっている。水平に切り出されたように綺麗に平らになった岩が川床一面を覆い、緩やかな階段のように段々となって水を流している。自然にできたとは考えられない整然とした美しい岩の並びに、その上を小さな滝を幾つも作りながら流れ落ちる清流に、しばし言葉を失う。水の流れる音が澄み切った山の大気に響き渡る。険しい道のりを乗り越えてきたからこそ見られる景色である。山の専門家、山本弘はここを皆に見せたかったのだ。
弘は平らになった岩に腰掛け、バッグをひょいと横に置いて一息ついていた。その腰を下ろしている岩も見事に綺麗な水平で、まるで腰掛け用にこの場にあつらえたかのようである。この川床は玄武岩という岩でできている。玄武岩質溶岩は流動性が高く、平坦な場所で噴出すると平らな台地を形成するという。
「ここはまだ名前がないんや、なんかえぇ名前付けたいんやけどなぁ。」
流れゆく水を眺めながら笑顔で呟く弘。この美しい場所は、いつの日か弘が素敵な名前を付けてくれるであろう。 酒造りは水が命。杜氏の壺坂はこの雪彦山から湧き出る伏流水を使って醸造する。壺坂酒造を 代表するお酒の名は「雪彦山」。この山の名を頂いているのだ。
その時、壺坂が足元を見ながら声を上げた。
「あ、ヒルや!」
壺坂の足首にがっちりヒルが噛み付いている。それに応えるように岡も言った。
「僕もやられてます!」
岡も同様に足首にヒルが付いていた。雪彦山周辺はヒルが多く、夏の終わりに夢前を訪れた料理人・城田も山中の神社でやられていた。こんな山奥ではヒルも活発に活動していて当然である。
軽装甚だしくスニーカーソックスを履いていた二人は、見事雪彦のヒルの洗礼を受けたのだ。岡に至ってはデニムの裾を小粋にロールアップしており、足首を守るつもりなんぞさらさらないと言わんばかりの爽やかさである。ヒルの格好の餌食ともなろう。
しゃがみ込んでヒルを払い落としていると、山の上方から登山者が降りてきた。トレッキングウェアを着た装備万全の若い男性二人組である。道を尋ねてきた彼らに山本弘は下山道を教えた。
「ありがとうございました!」
そう言って爽やかに山道を降りていく彼らは、山を歩きやすそうな登山靴を履き、登山用ザックには水の入ったペットボトルを下げている。そんな彼らを見送りながら、普通のシャツに普通のズボン、普通の靴を装備した手ぶらの壺坂がぽつりと言った。
「俺、こんな山奥でこんなカッコしてめっちゃ恥ずかしいんやけど……。」
(続く)
※雪彦登山は山の専門家・山本の指導の元、雪彦山遭難救助の訓練を受けた地元の壺坂も同行しています。雪彦登山は万全の備えをしてから挑みましょう。