臨済寺(りんざいじ)

臨済寺・登場人物紹介

且緩々を出た一行は車に乗り込み、夢前川沿いを南へ下っていく。車中から外に目をやると、浅い緑深い緑と目にも爽やかな新緑のトンネルが続き、そこを通り抜けると山の中にひっそりと佇む臨済寺の駐車場に着いた。

緑に囲まれた駐車場には、田舎の山には不似合いな白に輝くミニクーパーが停まっていた。そばに佇む一人の紳士に飯塚が駆け寄る。

「関先生!」

関は兵庫県立大学の名誉教授であり、夢前町の地域活性化プロジェクト「ゆめ街道」の委員長も務めている。スーツを着こなし髭を蓄えた穏やかな紳士だ。所用で遅れた彼とは臨済寺で待ち合わせをしていたのである。

関が加わった一行は、切妻屋根のある棟門をくぐり、寺へと続く苔むした階段を登っていった。 臨済寺は山中にあるためどこもかしこも緑に覆われているが、敷地内は綺麗に手入れがされている。写真家の石丸は時々立ち止まっては新緑をカメラに収めている。四月の芽吹きの爽やかさに神社仏閣特有の静けさ。ここだけ古から時が止まっているかのようだ。

「ようこそ、いらっしゃいました。」

臨済寺の住職は一行を和やかに迎え入れた。臨済寺は六百年以上の歴史を持つ古刹である。播磨地方で強大な勢力を誇示していた赤松氏族の発願により建立した寺で、夢前に臨済宗が伝わるきっかけになったとも言われている。播磨国に攻め入る毛利軍と羽柴秀吉との戦に巻き込まれ焼失したが、江戸時代初期に引っ越し大名とあだ名された姫路城主の松平直矩によって再建されている。

住職は夢前の古い文化に詳しい。土探しのヒントが得られるかもしれないと考え、彼らはここを訪れたのだ。

玄関先で挨拶を交わした一行は、境内の一室に案内された。用意されていた座布団に腰を下ろすと、縁側のガラス戸からも鮮やかな緑が見える。

銘々に干菓子と抹茶が出されると、今西は慣れた手付きで抹茶茶碗を手に一服、飯塚はボリボリと干菓子を口に入れる。酒器作りの説明をしながら、住職との話は自然と食べ物のことに向かっていった。

夢前町の郷土料理には、臭木(くさぎ)という山菜を混ぜた「くさぎめし」、ハエの小魚と大豆を炊いた「ジャコマメ」などがあり、今も地元で語り継がれているという。

「他にも何か珍しい郷土料理はないですか?」
質問をする一行に、それならばと住職は奥の部屋から小皿を持ってきて皆の目の前に静かに置いた。小さな豆皿の上には佃煮のような焦げ茶色のものが盛られている。

「こんなものがあるのですが。」と勧める住職。 箸を手に取り恐る恐る少量を口にした関が顔をしかめた。

「うわ、これは……。」

皆も次々に口にしては「しびれるッ」「ヤバッ」「口が痛い!」と感想を漏らす。これは山椒の木の皮を醤油で煮込んだもので「からかわ」という。通常、山椒は新芽や実を食べるのだが、これは木の皮である。ほんの少しかじっただけでも強烈な山椒の辛みと渋みが口内を襲い、ピリピリとした痺れがいつまでもいつまでも口内に居座り続けるという、凄まじい郷土料理であった。

「山椒の木の皮はこの辺りの地域、新庄(しんじょ)では食べません。ここより北の山之内(やまのうち)だけで食べられていたんですよ。」と住職は言う。山之内は先刻まで一行が滞在した且緩々のある地域だ。

住職曰く、山之内はかつて中央に食べ物を献上しており、山椒の実も納めていた。そのため残った木の皮を食べる文化が庶民の間に根付いたのだという。また、木の皮を食べる風習があるということは、それだけ食べるものがなく貧しい暮らしを強いられた土地であったと推測されるようだ。瀬戸内海から新庄までの地域は田畑となる土地があるが、ここより北の山之内になると土地も痩せ、尚且つこれといった産業もない。林業が盛んとなる明治以前は非常に貧しい僻地だったのである。

住職によると、山之内は食物だけでなく言葉のアクセントも微妙に異なるという。隣町の宍粟の言葉に似ているというのだ。宍粟は出雲と関わりが深い──。

どうやら夢前町の中でも北端の山之内だけが独自の文化を築き上げてきたようである。そして貧しい環境にもかかわらず、応神天皇や後醍醐天皇など歴史を動かしてきた重要人物が訪れ、祠や御所などを建てている。先程の福岡の話に引き続き、ここでも夢前の歴史の不思議が語られる。

ひとしきり話を終えた後、住職は穏やかに言った。

「謎が多い土地ですね。」

住職に別れを告げて一行は臨済寺を後にした。次の目的地は米農家・飯塚の田んぼである。遺跡の一部だということが発覚した彼の田んぼの土は、酒器の材料として使えるのであろうか。 期待に胸を膨らませながら、一行は飯塚の田んぼがある古知之庄(こちのしょう)へと車を走らせるのであった。

臨済寺で撮影をする石丸直人氏
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「立船野」地名の由来

夢前町山之内には立船野(たちおおの)という地名がある。海から遠く離れた山深いこの地になぜ「船」の名が付いたのか。その由来は遠く後醍醐天皇の時代に遡る。

時は鎌倉時代、倒幕に失敗した後醍醐天皇は隠岐島に流されたが、その地で海運業を営んでいた武将・名和長年(なわながとし)とともに挙兵する。京都への帰還途中に夢前町に立ち寄り、山之内に天皇忍びの御所を設けたのだ。この地を選んだ理由は「敵から隠れるには最適な地であったから」だという。他にも何かしら理由があったと思われるが、貧しい僻地が潜伏するにはうってつけであったのだ。

海の男である名和長年が帆掛船印の旗を立てて御所を造営したことから、山之内の一角を立船野と呼ぶようになり、その名は現代にも残っている。地名は古と今を繋いでいるのである。

山のはに
鹿もかいろのこゑたてて
雲になみのる 立船野の船

後醍醐天皇御製

臨済寺を再建した姫路城主の松平直矩は、生涯に七度の国替えをさせられた「引っ越し大名」だった。

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