且緩々(しゃかんかん)

且緩々・登場人物紹介

 兵庫県姫路市は、世界遺産姫路城を中心に近代的なビルが建ち並ぶ商工業都市である。街の中心である姫路駅から車で北へ走ると、背の高い建物はだんだんと少なくなり、30分ほど行くと町の堺で景色は一変、田畑や野山が見られるのどかな景色となる——夢前町だ。

 町を南北に貫く夢前川沿いに北へ行くと、家屋はさらに少なくなり緑は濃く深くなっていく。夢前の北端、山々に囲まれた川のほとりに一軒、校舎のような建物が見える。廃校となった幼稚園を改装した農家レストランで、店の名は且緩々(しゃかんかん)という。辺鄙な場所にもかかわらず平日でも客足が絶えないのは、地元の食材をふんだんに使ったビュッフェスタイルのランチに定評があるからだ。

 2018年4月16日、5人の男達がこの店を訪れていた。播磨日本酒プロジェクトの発起人であり、酒米作りを担当する米農家・飯塚。酒造りを担当する壺坂酒造の杜氏・壺坂。兵庫県丹波篠山の陶芸家・今西。今西の友人にして国内外で活躍する写真家・石丸。夢前の若手葡萄農家の小山内(おさない)。

飯塚と壺坂、小山内は夢前町でそれぞれ農業と酒造を営んでいる地元民であるが、今西は丹波から、石丸は大阪からはるばるやって来たのだ。皆、二十代から四十代の働き盛りである。

彼らの目的はただ一つ、「旨い酒を呑むための最高の酒器を作ること」。それだけのために大の大人が夢前町の北の僻地に集結したのだ。

 昼食時の店内は多くの人で賑わっている。男達は地元の旬野菜で彩られた料理を好きなだけ皿に盛り付けてテーブルに座った。飯塚と今西は個展で面識があったが、他のメンバーはこの日が 初対面である。互いに自己紹介をしながらひと時食事を楽しんでいたが、彼らはランチを食べるためだけにここを訪れたのではない。この店を経営する福岡の話を聞きにきたのだ。

 酒器作りにはまず、器を作るための土が必要となる。土が出来るまでには途方もない年月がかかっている。そのため土を扱うことは、その土地を扱うのも同じこと、と今西は考える。故に土地の歴史を知るのは大事な仕事なのだ。そこで、先ずは夢前の歴史をよく知る人物から話を聞こうということになったのである。

且緩々の社長である福岡は、ハーブを使った加工品事業を展開しており、平行してレストラン経営をしているが、夢前町の郷土史にも詳しいことで知られている。造詣が深い彼ならば何か知っているかもしれないと考え、彼らは福岡を頼ってきたのだ。

 ランチを終えた一行は、且緩々のスタッフによる案内で店内の一室に通された。この店は廃校となった古い幼稚園を再利用しており、使いこまれた木枠の窓や扉など、そこかしこに校舎の名残が見られる。元は教室であったであろうその部屋は、陽射が差し込む南向きに窓があり、窓からは 夢前ののどかな景色が見える。テーブルの上には人数分の資料や地図が置かれ、銘々にお茶が配られたところで福岡が部屋に入ってきた。

 福岡は年の頃は六十歳前後、快活で知的、親しみやすい雰囲気がある。白髪混じりの頭は少し寂しくなってきており、彼はそれをハゲネタとして日頃から大いに活用していた。ところが、自身のレストランで取り扱っているハーブを使用しているうちに頭髪が中途半端に増えてきて、鉄板ネタを使いにくくなったことが嬉しいような寂しいような、そんな知的な紳士である。

 テーブルの前に立って挨拶と簡単な自己紹介をした福岡は、資料を片手に一同の顔を見回してから快活に宣言した。
「では、これから夢前の歴史についてお話しさせていただきます。」

 夢前町は兵庫県姫路市の北端にある。修験道で名高い雪彦山の南麓に位置する田舎町である。この辺りの歴史は古い。辺鄙な土地にもかかわらず、西暦200年から300年頃に応神天皇が雪彦山で祠を建立しており、その後も、空海、後醍醐天皇など歴史を彩る錚々たる人物が夢前を訪れている──。

 資料と地図を見せながら、滔々と夢前史について語る福岡。応神天皇が即位していた弥生時代から始まり明治時代まで、日本各地の時代背景と比較しながら夢前の歴史が順に語られていく。 彼の話は神社仏閣、武士の家系に至るまで奥深く、非常に魅力的である。歴史好きの今西は身を乗り出して彼の話に聞き入っていた。

 しかしながら歴史に疎い者にはその魅力は伝わりにくい。ただただクエスチョンマークを脳裏に往来させるだけのその他メンバー。杜氏の壺坂は思わず本音を漏らした。

 その時、飯塚がふと一つの写真に目を留めた。それは福岡が用意した資料に掲載されているモノクロ写真であった。奈良時代の建物跡である上岡遺跡を撮影したもので、現在は田畑となっている様子が撮影されている。それを見るなり、飯塚は叫んだ。


「あ、ココ! ウチの田んぼッスよ!」
「えぇぇ──!」

 なんと、飯塚の田んぼが上岡遺跡の一部だったのだ。古代に建物があった場所なら器を焼いた窯も近くに存在したかもしれない。ならば器に使った土もこの近辺で採った可能性がある。

福岡によると、上岡遺跡のすぐ近くには須恵器(すえき・古墳時代から生産された陶質土器)を作った窯の痕跡もあるという。これから飯塚の田んぼに出向いて土が使えるか確認する予定ではあったが、それを後押しするような証拠が出てきたことに一同は興奮した。

「飯塚くんの田んぼの土を採ろう!」

にわかに色めき立つ一同。早くも酒器作りの材料となる土の可能性が見えてきた。

夢前史の講義は一時間ほどで終了した。多くの資料を用意して貴重な情報を教えてくれた福岡にお礼を述べて、一行は且緩々を後にした。確かな手応えを感じながら車に乗り込む一同。

各々の愛車は列をなして、次の目的地である臨済寺(りんざいじ)へ向かって南へ走る。男達の土探しが始まった。

(続く)

須恵器

 須恵器とは、古墳時代中頃(5世紀初頭)に朝鮮半島から技法が伝わった、灰色または灰黒色の器である。それまでの器は縄文土器や弥生土器、土師器といわれるような野焼きで作られたもので、手軽に作ることができる反面、経年変化によりもろくなるという欠点があった。

須恵器の最大の特長は、窯を使うことである。須恵器以前の器は焚き火に放り込むような感じで焼かれていたため、焼成温度は800度程度が限界であった。しかし、窯の登場により焼成温度を1200度まで上げることができるようになり、固く焼き締めることが可能となる。従来の土器とは異なる頑丈な須恵器は重宝されたのだ。窯の発展とともに大量生産も可能となっていく。須恵器の登場は、器の近代化という点において重要なポイントである。

 飯塚の田んぼの近くにある須恵器窯跡は、6世紀以後のものと見られている。多量の土が採られている状況と須恵器破片の出土地点から、登り窯であったようだ。奈良時代から鎌倉時代まで須恵器窯として使用されていたと推定されている。

(追記)

 博識で人の良い福岡にすっかり魅了された陶芸家・今西は、後日丹波に帰ってからも特に意味もなく彼の動向が気になるようであった。仲間内のラインからもその様子が伺える。

福岡氏が経営する
「香寺ハーブ・ガーデン」人気商品

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