酒米の田植え
梅雨が田畑を潤し、米農家が本格的に忙しくなる田植えの季節がやってきた。
6月21日、この日は田植えにはうってつけの快晴であった。今西と石丸に酒米の田植えの様子を見学してほしいと考えた飯塚は、予め二人に田植えの日程を知らせていた。写真家として多忙を極め、海外での撮影も多い石丸はあいにく都合がつかなかったが、今西は参加できるとの返事があり、四月の土探し以来の酒器作りメンバー集合となった。
夢前に着いた今西は、まずは杜氏の壺坂と夢乃井で合流した。昼食をとりながら近況を報告し合い、食事を終えると飯塚の田んぼへと向かった。
今西にとって久しぶりとなる夢前の景色は相変わらずのどかである。変わったところといえば、辺り一面の田んぼがたっぷりの水で潤い苗が植えられていることであろう。6月後半にもなれば兵庫県ではほとんどの田植えが終わっている。しかしながら播磨日本酒プロジェクトで栽培する酒米の山田錦と愛山は晩生(おくて)と呼ばれる品種で、一番最後に田植えを行うのだ。
田んぼに到着すると、田植え機がドドドドと音をうならせてやって来た。飯塚である。田植え機から降りて今西と再会を喜び合う飯塚。彼はせっかくだから見学だけでなく手植えを体験していってほしいと事前に話をしていた。
田んぼに入るために、杜氏の壺坂はさっそく田植用長靴を出して履き替えた。普通の長靴で田んぼに入ると泥と水の重みですっぽ抜けてしまい全く用を為さない。この田植用長履は伸縮性があり、肌にフィットして軽くて丈夫、素足感覚で田んぼの中を動き回れるという優れものである。 壺坂は杜氏であるが毎年飯塚と田植えを行っているため、このような農家専門アイテムを常備しているのだ。
対して、今西はそんなマニアックな長靴など持っているわけがない。今日はシャツにデニムという格好であるが、細身のデニムでは裾を捲り上げるにも限界がある。
「パンツで田んぼに入るわけにいかんからなあ。ちょっと着替えてくるわ。」
そう言って自分の車に入り着替え終わって出てきた今西は、白い素足を大胆にさらしたベリーショートパンツの出で立ちであった。パンツ(下着)とさほど変わらないように見える。などと言ってはいけない。
今西の名誉のために書き加えておこう。彼は日本遺産である日本六古窯の一つ、丹波立杭で作陶をしている新進気鋭の陶芸家である。彼の作品に対する評価は非常に高く、その器は多くの一流レストランで使用されている。人を肩書きのみで判断すると、多分にその本性を見誤ることがある。職業や肩書きだけで人を見定めてはならないことと同様、ズボンの裾の長短だけで人品を判断してはならない。彼は丹波を代表する優れた陶芸家である。
たかが田植えといって油断は禁物である。田んぼに慣れていない者にとっては、そこに入る前から試練は待ち受けているのだ。かつて杜氏の壺坂も重大なミスを犯したことがあった。
昨年(2017年)の播磨日本酒プロジェクトの田植え前日のことである。壺坂はイベント準備のため田んぼへ来ていたのだが、前日準備ということで油断をしていた彼は田植用長靴を持ってきていなかった。ズボンを捲り上げればよかろうと裾を少し上げたところ、下着のパンツがちらりと露見した。そう、その日に限って彼は「ちょっと長いパンツ(下着)」を履いてきてしまったのだ。2017年、初夏の杜氏のはみパン事件である。
播磨日本酒プロジェクトでは毎年2種類の酒米を栽培している。酒造好適米の代表ともいわれる山田錦と、その山田錦を祖先にもつ愛山である。どちらも兵庫県で誕生した酒米であり、山田錦は全国生産量の約八割を兵庫県産が占めている。愛山にいたっては生産農家の数が非常に少なく、一部の農家のみで栽培されているため流通も非常に少ない。
普通の米に比べると山田錦は栽培が難しいとされているが、愛山はさらに難しい農家泣かせの米である。背丈が高いため倒れやすく病気にも弱いからだ。並みの農家では気安く扱えないそれらの酒米を毎年見事に育て上げるのが、米農家として一流の腕をもつ飯塚である。
今年は山田錦と愛山に加えて、新しい品種を栽培することにしていた。その酒米の名は「辨慶(べんけい)」である。辨慶は兵庫県で大正時代に育成されていた米で、山田錦が登場する前は山田穂とともに兵庫県で多く栽培されていた品種である。しかし終戦後に栽培農家が減り、姿を消してしまったため「幻の酒米」と言われている。
この辨慶の種籾が兵庫県農業技術センターで保管されており、そこから譲り受けたわずか700グラムの種籾を使って栽培することになったのだ。
準備が整ったところで、3人は田んぼに入っていった。6月の田んぼの水は冷たくもなく、ぬるくもない。泥に足を踏み入れると20センチメートルほどであろうか、思いの外深く足が沈んでいく。一旦沈みきった足は再び持ち上げようとしても思うように上がらない。水中で歩くよりも泥土がある分抵抗が強いのだ。一歩一歩に体力をとられる上、バランス感覚も奪われる。田んぼに入るだけで素人はこの様である。農家の肉体的負担は相当なものであろうことが、田んぼを少し歩いただけで思い知らされる。
しかしながら今西も壺坂もなぜか満面の笑みで水田を楽しんでいる。田舎の泥だらけの田んぼに入ると童心に戻るのであろうか。ベリーショートパンツの陶芸家とはみパンの過去を持つ杜氏は、泥で足をもたつかせながらも嬉しそうに田んぼの中をウロウロしている。
さっそく飯塚の指導のもとに田植えが始まった。苗の束を片手に持ち、もう片方の手で束から2、3本取り、他の苗と30センチメートルほど間隔を開けて真っ直ぐに植えていく。言葉にすれば簡単そうに思えるが、実際にやってみるとコツが必要なことが分かる。浅く植えるとすぐに 倒れてしまうし深すぎてもダメだ。それを腰をかがめてやり続けるとなると相当の体力が必要になる。田植え機がなかった頃は見渡す限りの田んぼを全て手作業でやっていたのかと思うと気が遠くなりそうである。
しかし田植え機が登場した現代、農作業が楽になったかというと決してそうではない。人手が格段に減ったため、機械を使っても作業が追いつかないのである。早朝から田植え機を乗り回しても日暮れまでに終わらず、頭にヘッドライトを点けて夜中まで田植えをすることもザラにあるのだ。
農作業は重労働で人手が足りない、利益は少なく機械は高額、育てた作物は野生動物に食べられる。そんな厳しさ満載の農業界にいながら、いつも元気に米作りに精を出している飯塚。彼のような農家のおかげで美味しいお米が今日も食べられるのだ。そう思うと飯塚のひょっとこ顔も頼もしく見えてくるというものである。
慣れない手つきながら田植えを楽しむ今西。対照的に慣れた手つきでスッスと植えていく壺坂。 幾度も同じ作業を繰り返すうちに、徐々に今西の手さばきもリズミカルになっていく。端まで植え終わったところで終わりにしようとなり、田んぼのあぜ道へと三人は戻っていった。 壺坂が先にあぜ道へ上がり、今西は持っていた苗の残りを壺坂に手渡した。苗を受け取った壺坂は、手の平に違和感を覚えた。何だろうかと改めて自分の手の内にある苗を確認した壺坂は、驚きのあまり思わず言葉を漏らした。
「今西さん、これは……!」
苗の根っこ部分には土が付いているのだが、なんと今西が持っていた苗の土部分がきれいに丸められていたのである。まるで苔玉のようにしっとりとした球体に仕上がっている。陶芸家・今西は、田植えをしながら無意識に片手で苗の土をひねっていたのだ。
職業病とは恐ろしいものである。彼の手にかかれば苗についた少量の泥土までもがきれいに整えられてしまうのだ。
初めて見る「苗玉」に壺坂と飯塚は驚き、次の瞬間爆笑の渦となる。だが一番驚いていたのは当の本人、今西であった。
田植え体験は無事終了した。しかし米作りはこれからが本番である。山田錦と愛山は倒伏しやすく病気にも弱い。辨慶に至っては初めて育てる品種で、近代になってからの栽培実績が非常に 少なく手探りで進めなければならない。飯塚は稲刈りが行われる十月まで、毎日稲の顔色を見ながらこれらの酒米を立派に育てあげるのだ。
杜氏の壺坂はこう語る。
「飯塚くんはよく考えて米を作ってる。だから安心して酒米を頼める。」
一緒に酒造りをやってきた杜氏の壺坂は、飯塚の米作りの腕に全幅の信頼を置いているのだ。
今西が夢前町を訪れた2日後、見事に晴れ渡った6月最後の日曜日に播磨日本酒プロジェクト酒造りメンバーによる田植えが行われた。スタッフも合わせて総勢約60人。毎年一緒に酒造りを行う顔馴染みの仲間に加えて今年初めて参加する人も多い。兵庫県在住が多い中、この日のために関東からはるばるやって来る仲間も数名いる。
青空の下、一列に並んで苗を植えていく。大人は手も足も泥だらけにして心地よい汗を流し、子どもは泥の中で蛙を捕まえては走り回る。水田には笑い声が響き渡っていた。
田植えの後はもちろん、皆で酒を酌み交わす。酒好きの集まりであるから昼間からでも心ゆくまで呑みに呑む。田植えでともに汗をかいた後の酒好き達の宴は毎回賑やかである。
(続く)
播磨の巨人伝説
播磨は古来から米作りが盛んな土地であった。日本最古の地誌である播磨国風土記によると、大地を農業に適した暮らしやすい土地に変える神々の話が幾つか見られる。
昔、多可(たか)の地には雲を衝くような巨人の神がおり、播磨の泥地を踏みしめて歩いたことで大地が固まった。巨人の足跡は沼や池になったという。
飯塚の田んぼの土も稲作向きの粘土質である。肥沃な土壌から神話が生まれたのか、それとも本当に播磨の神が土を変えたのか──。いずれにせよ播磨が古代から米所であることは事実であり、豊沃の地で米作りは古(いにしえ)から今に受け継がれているのである。