大橋のり〈創業と継承〉

淡路島の西海岸・五色浜で漁を生業とする大橋水産は、先祖代々この地で漁をしてきた。今も昔も鰆(さわら)漁が盛んな地域であるが、時代が変われば漁も変わる。先の時代を見越して大橋水産で海苔の養殖を始めたのは、大橋盛夫さん(72歳)だった。

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ゼロからのスタート

若かりし頃の盛夫さんは海苔の養殖をすると決めたものの、何をどうしていいか全くわからないゼロからのスタートだったという。盛夫さんは当時のことを振り返ってこう言う。

「若い時は恐れ知らずで、だから勢いでやれた。今はできん。若いことは素晴らしいことや。」

大橋水産では胞子が付いた海苔網を業者から購入しているが、昔は自分達で海苔の胞子を網に付けていたそうだ。

海苔の親である糸状体は牡蠣の殻の中に生息しており、秋頃になると「殻胞子」を殻の外へ飛ばす。自然の海ではその殻胞子が岩などに付着して発芽する。その生態を利用して、牡蠣を入れた水槽に網を入れて胞子を網に付着させるのだ。

牡蠣は雨や曇りの日には口が開きにくく胞子の出も悪い。よく晴れた日には貝が開いて胞子がたくさん出てくるそうだ。

「晴れてたらいけるで!っていう感じで(胞子が)出てくるんや。」

朝5時頃に網に胞子を付ける作業を始めて、昼頃に網を少し切り取って顕微鏡で胞子の状態を確認する。一視野に殻胞子が20個ほど付いているのが見られたらベストな状態だ。少ないのはもちろんだめだが、多すぎても良くない。海苔は海の中で細胞を飛ばして増えていくが、増殖していくためにはある程度空間が必要なのだという。

肉眼では見ることができず、顕微鏡でやっと確認できるごく小さな胞子。この小さな一つの細胞から盛夫さんの海苔の養殖は始まった。

たった一つの細胞から

胞子を付けた網を海の養殖場に張ると、盛夫さんは毎日網を少し切り取って持ち帰り、顕微鏡で成長の様子を確認する。海に出したばかりの頃の胞子は真っ白。少しずつ色づいて細胞も増えていき、1週間ほどで海苔は肉眼で見えるくらいに成長する。

「目に見えんものを育てるんや。(見えるくらい大きくなったら)我が子の成長みたいに嬉しいぞ。」

網を張ってから10日ほど経つと、海苔の細胞の一部が分離して近くの網に付着し、そこから新しく「二次芽」が育つ。毎日毎日増えて大きくなっていく様子を、盛夫さんはその都度顕微鏡で観察してきた。

「うまいことできとんねんぞ、自然は。俺はいつもそない思うわ。」

天候や海水温の変化で海苔は順調に育ったかと思うと病気になったりもする。強風で海苔網は破れるし、収穫のタイミングを間違えると全てがだめになる。ゼロからのスタートで試行錯誤で海苔を育ててきた盛夫さんは、壁に突き当たる度に、海苔に向き合い自ら答えを導きだしてきた。

「海苔は何を言いたいんか、考えてしまう。」

顕微鏡で海苔を確認する盛夫さん

2022年1月、収穫したばかりの海苔の出来を確認する盛夫さんは、小さな海苔の一片を手にしながらこう言った。

「この海苔1本に、細胞何個あると思う?」

「あの目に見えんくらい小さい細胞が、こんな長い海苔になる。たった一つの細胞からこんだけになるんや。成長したのを見たら感動するで。」

生と死と、受け継いでいくもの

盛夫さんが生まれる少し前のこと、家族で漁を営んでいた盛夫さんの祖父の家は、たった1日で3人もの命を失った。漁に出て海にのまれたのだ。盛夫さんは3人の命を背負う覚悟で漁師になったのだという。

大きな海の前では人はあまりにも小さく、ちょっとした隙に海にのまれてしまう。漁師は常に危険と隣り合わせだ。造船技術が進歩してスマホですぐに天候がわかるようになった今でも、やはり死人は出る。

果てしなく大きな海で、目に見えないくらい小さな細胞を育ててきた盛夫さん。小さな命を育て、命を獲って、また取られもする。盛夫さんの側には常に生と死があった。そんな漁師の生き様は一つ一つの言葉に現れる。

「自分の先祖のどこかが切れても、自分はおらんかった。先祖を大切にするんは人としての道理や。それがわかってたら悪いことはできん。」

今、私たちはこの「道理」をどこまで理解できているだろうかと考えさせられる。自然とかけはなれて人や生き物の生死を身近に感じることのない現代の生活では、腹の奥底からわかるとは言い難い。当たり前の道理が当たり前に感じられなくなっているのが現代だ。命と向き合ってきた人の語る言葉には、真に迫るものがある。

盛夫さんは3人の元気な女の子に恵まれたが、男の子は生まれなかった。長女が産まれ、その次は双子の女の子だった。

「これで漁師は終わりやと思った。けど何かに導かれたように今も漁ができてる。」

双子の女の子の一人である純子さんが成長して漁師になり、婿養子を迎えたのだ。今は純子さんの夫である宏樹さんが、大橋水産の代表として漁を取り仕切っている。宏樹さんは漁師になって約5年。それまではカーディーラーの営業兼整備士として働いていたのだが、今や盛夫さんも太鼓判を押す立派な漁師だ。整備士の経験を生かして船の整備もできるので頼もしい限りである。彼は淡路島で生まれ育ち、実家は漁業とは関係のない仕事をしていたが、祖父は長崎県の五島列島の漁師だったという。ここにも何かの縁があるのだろう。

そして今、宏樹さんと純子さんの間に生まれた小学生の男の子が、海で漁の手伝いをしている。将来は漁師になりたいと言い、両親や祖父母と一緒に積極的に海へ出ていく。

3人の命を背負った盛夫さんの漁は、途切れることなく未来へと繋がったのだ。

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