東風吹かば

漁師は風のことを良く知り、理解している。風の動きの読み解きが仕事を左右し、己の生死を分けるからだ。

淡路島の五色浜の漁師、大橋盛夫さん(72歳)と話をしていると、風のことが頻繁に出てくる。今はスマホのアプリで雨雲や風向きがすぐに分かるが、昔の天気予報は今ほど当たらなかったらしい。自分で風を感じて天候の変化を読み解くしかなかったのだ。

春の始めは「いなさまぜ(南東の風)」が吹く。8月は西の風。秋は北の風。
「いなさまぜは沖に出ると雨つけていきなり吹いてくる。波は高いし雨は降る。恐ろしい風や。」と盛夫さんは言う。

季節ごとに風や天候にまつわる言い回しもたくさんある。

「西の風三つだし」は、冬、満ち潮が1/3くらい引いた時に、西の風が吹いてくることをいう。

「秋の夕焼け鎌研いで待て」は、夕日がきれいに見えた翌日は晴天で外仕事ができるから鎌を研いで準備しておくという意味になる。

けれども近年の気候の変化で、昔から伝わる言い回しが通用しなくなったものもあるという。
「土用半ばにはや秋風かいな」は、8月に西風が吹くとすぐ寒くなる(秋になる)という意味であるが、今は10月になっても暑い日が続いたりする。

今は昔に比べると風が吹かなくなったと盛夫さんは言う。吹くことは吹くけれど、昔のようにはっきりと強く分かりやすい風ではないそうだ。風が吹かないという話にハッとする。気温の極端な上昇や下降、局地的集中豪雨などの異常気象は実感としてわかっていたが、風のことには意識がなかった。当たり前にあると思っていた「風」。その風が吹かないというのは、私たちが思っている以上に大変なことなのではないだろうか。

今、海の栄養分が極端に減っていると言われている。昔は海の栄養が十分にあり海水温も低かったため、大橋水産では10月から4月まで海苔網を2回張り替える二期作で海苔の養殖をしていた。今は海苔の養殖期間は11月から3月まで。海の栄養分のことも考えて網は1回しか張らない。収穫量も当然変わってくるし、海苔の出来も昔とは違うようだ。昔の海苔は紫がかった艶のある真っ黒な色をしていたという。今は昔のような「黒さ」が出ないというのだ。

瀬戸内海は陸地に囲まれているため、周囲の山々から川や地面を伝って栄養分が豊富に海に流れ込む。その栄養が小さな生き物を育み、それを目指して大きな魚がやってくる。このようなサイクルがあるから瀬戸内海は魚種が多い豊かな海だと言われてきた。

しかし、近代の都市開発と護岸工事により、地面から海へ栄養が行くことはなくなってしまった。各地で見られる森林荒廃も海の栄養不足の原因となっている。人の手で整備されなくなった森林は荒れ果て生物多様性を失い、土砂崩れや獣害被害の一因にもなっている。山の生物多様性が失われるということは、そこから川へ流れる山の栄養分もなくなり、海へ流れ込むこともない。

このサイトで紹介している兵庫県自然保護協会理事の山本さんの活動を思い出す。当たり前のことだが、山も海も風も全て繋がっている。それを山のプロ、海のプロから直に教わると一層実感が伴い、自然が失われている現実を突きつけられる。

「東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花、っていう歌あるやろ? あれはきれいな歌やなあと思うわ。」

盛夫さんが言う菅原道真の和歌には、春を告げる風が詠まれている。これから先、梅の香りを運ぶような東風(こち)が吹く環境を守り育てていけるか、それは私達にかかっている。

自然と仕事と、真正面から向き合う人から教わることはなんと多いことか。老練の漁師の横顔を見ながら頭が下がる思いだった。

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