みずばち
明治生まれの作家・幸田文の著書には度々「水罰」という言葉が出てきます。水道がなく井戸水を汲み上げて生活用水にしていた時代、水はとても大事に扱われていたそうです。
苦労して汲み上げ、かつぎ運んだ水はとても尊いもので、ただ流したり溢れさせたりすることは到底できないと幸田文は言います。洗濯のすすぎ水、拭き掃除後の雑巾の水さえも無駄にしないで、最後は井戸端を洗ったり、まき水にしたとのこと。怠け心で無駄に流してしまうと「お前に水が作れるか」「水罰が当たる」と周りの大人に厳しく怒られたそうです。
あばれ川とか、山くずれとかいうことに気がついて、見に行ったりしているんですけれども、それで県庁なんかの人にいろいろ聞きますとね、家庭での水をもっとセーブするしかたをよくしないと、所詮はつらい時がくる。
1979年「味は一生のもの」辻嘉一と幸田文の対談より
およそ40年前に幸田文が言った事が現実となっています。水罰という言葉すら知らない私たちにとって、水はあって当たり前のもの。特別に感謝をすることもせずに日々を送ってきました。その結果が今です。
このごろ水資源の保護とかもいうし、水害もあったりすると、しんみりする。言葉が消えたとき心も消え、言葉と心が消えたあと、じわじわと大水罰が当りはじめるのかなあ、と思う。
幸田文「みずばち」より