非常事態の善意

1995年1月17日午前5時頃、阪神・淡路大震災が発生し、戦後最悪といわれる深刻な被害をもたらしました。それと同時に学生ボランティアが現地で活発に働いたことにより「日本のボランティア元年」とも言われています。

当時大阪に住んでいた私は、今まで体験したことのない強い揺れに慄き、余震に怯える日々、友達数人は安否不明という怖い体験をしたにも関わらず、ボランティアには関心が薄いという有様でした。それなのに友人に誘われたというぼんやりした理由から、兵庫県へ震災ボランティアに行くことになったのです。

被災地で私に充てがわれた仕事は、全国から送られてきた大量の支援物資の一つ、衣類の仕分けでした。

今では、救援のための衣類は新品のものか清潔なもの、箱の中に何があるか明記しておく、など、現地でスムーズに配分ができるように、物資を送る側に最低限の配慮が求められます。しかしながら当時は戦後初と言われるほどの大規模な非常事態。物資のマナーも何も確立していない頃だったので、ボランティア現場は大混乱でした。

衣類の仕分けのための部屋に入ると、目に飛び込んできたのは部屋を埋め尽くすようにうず高く積まれた古着の山。被災者のために全国から送られてきた衣類です。この古着の山の中から使えるものと、使えないものを分けるというのです。半端ない衣類の量に加え、使えないものがほとんど。シワシワで洗濯してないようなものや、使用済みの下着、よれよれで破れたシャツ、震災時は真冬で冬服が必要なのに、夏物の服が多く、中には水着まで。

けれども、これらの「ゴミの山」は善意によって全国から送られてきたものです。今となっては着古した衣類を送るなんて非常識だ、と思われるかもしれませんが、当時は経験したことがない未曾有の事態に皆んな状況が分からず、必死に何かできることを、と考えた結果だったのです。

善意とは何なんだろう、とボランティア精神に薄い私ですら、大量の古着を前にして考えてしまいました。

混乱した現場では「善意でやったことだからいいじゃないか」という「気持ち」だけではどうにもならず、かえってその善行が後々まで引きずる深刻な妨げになったりします。

今、日本は経験したことのない状況を前にして、ある意味非常事態です。そんな中にあって、多くの人の「善意」がいたるところで形になっています。果たしてその善行は本当に必要なものなのかどうか。善意という動機自体が自分の心中の何かからすり替わったものではないか。色んな角度、視点から、一人一人が冷静に見極めていく必要があると思います。

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