末の松山

契りきな かたみに袖を絞りつつ
末の松山 浪こさじとは

清原元輔

訳)涙に濡れた着物の袖を絞りながら約束しましたよね。末の松山を波が超えることはありえないように、私たちの恋心も決して変わることがないと。

清原元輔は清少納言の父親で、この和歌は百人一首にも納められています。

ここで詠われている「末の松山」とは東北地方の古い地名で、現在の宮城県多賀城市、宝国寺の裏山の松ではないかと言われています。宝国寺は海から約2kmほど内陸にあり、ここまで津波がくることはまず考えられません。

「末の松山浪こさじ」は、太陽が西から昇ることがないように、末の松山まで津波が来ることはない、決して起こらないことの例えとして使われる定型文のようなもので、平安貴族など多くの歌人の和歌に取り入れられてきました。当時の北陸は、京の都人からすれば、見たこともない遠く離れた外国のようなもの。その地への憧れから「末の松山浪こさじ」が変わらぬ愛を詠む恋愛歌に取り入れられるようになったのです。

しかしながら現地の宮城県多賀城市では、「末の松山」は実際に大地震が起きた際の避難場所として、昔から言い伝えられてきたといわれています。古代より度々津波に襲われてきた東北海岸地方の、生き延びるための知恵として伝承されていたのです。

2011年3月11日に起きた東日本大震災の際も、末の松山は避難場所として活躍しました。末の松山がある宝国寺の本殿の石段まで津波はきましたが、お寺の裏にある松が生えた高台まで届くことはなく、深刻な被害はなかったそうです。

「末の松山浪こさじ」はロマンに満ちた変わらぬ愛の代名詞となっていますが、その奥には現実的な厳しい自然現象を内包しています。

事実が言い伝えとなり年月を経て文学や芸事となり、その表面的な意味は変わっても、真意を含んだまま現代にまで残されていることはよくあることだと思います。決して松山より先には浪を超えさせない、という痛烈な先人達の思いもあったのかもしれません。古代から「言霊幸う国」と言われる日本の特異性が、ここにも現れているような気がします。

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