戦争を最小限に抑えた人

川村清雄/徳川慶喜像

1868年旧暦3月14日、勝海舟と西郷隆盛の会談により、江戸城の無血開城が決定しました。

明治維新の際は、新しい政府を目指す開国派と、今までの徳川体制を望む幕府とで争いが起こりましたが、その被害を最小限に抑えた功労者が、徳川家最後の将軍、徳川慶喜でした。

徹底的に戦うことを主張する幕府側の武士達を抑え、自ら謹慎した慶喜。もし彼が幕府の軍隊を出して開国派と全面戦争の道を選んでいたら、被害は甚大なものとなり、奇跡と言われた日本の超急速な近代化はありえませんでした。

また、江戸末期の混乱に乗じて、フランスやイギリスなどヨーロッパの大国が、それぞれ開国派と幕府側に援助を提案していました。もしも外国の助けを全面的に受け入れていれば、後々まで禍根を残す複雑な大戦になっていたかもしれません。

戦争にはそれぞれの思惑が複雑に絡み合い、どの局面も一枚岩ではありえません。明治維新の優れた点の一つは、国内で問題を収めて被害を最小限に留めたことにあります。それは天皇を中心とした単一民族だからこそ成しえたことかもしれません。

今のロシアとウクライナ、世界各国がからむ紛争についても、どちらが正しいか一局面だけを見ていては全体像がつかめません。感情に流されると感情が捉える一面しかわからなくなります。大陸の民族移動や国の成り立ち、外国の介入、過去から現在まで含めて誰が何を考えて選んだのかを俯瞰で見ていく必要があります。だからややこしいのです。

感情と色んな側面からの物の見方、捉え方、その総合力が試されます。かつて、徳川慶喜は戦乱の最中に何を「感じて」「選んだ」のでしょうか。


慶喜は人生の最後に次のような和歌を残しています。

この世をばしばしの夢と聞きたれど
おもへば長き月日なりけり

徳川慶喜

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